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2020年3月4日

内坂庸夫

418

あの素晴しい愛をもう一度(*1)

 なにか声が聞こえる。谷間から歓声?! 繰り返し繰り返し、規則正しく聞こえてくる。なに? なんだ?

 2012年5月18日、UTMF第1回大会は時計廻りのぐるり1周156km。富士山を真ん中に据えた大きな時計があるとすれば、12時から走り出して2時くらいで杓子岳を越え、3時に須走、6時に富士山こどもの国、8時から10時に天子山地を乗り越え、11時の樹海から足和田山をやっつけて12時の河口湖に帰還。だいたいそんなとこだ。

 地図と標高グラフを見てすぐにわかった。すでにレース終盤となるUTMFの選手はもちろん、イキのいいSTYでさえも、こてんぱんにやられるのは27kmにも及ぶ天子山地の縦走、富士山時計8時~10時のところ。走る順に南から北に天子ヶ岳、長者ヶ岳と続き、山と高原地図ではここでコースは破線(つまり悪路)になって天狗山、熊森山、井之頭峠、雪見山、金山、地蔵峠(ここで悪路表示が終わる)。まだまだ続く、毛無山(レースコース最高峰1964m)、大見岳、タカデッキ、雨ヶ岳、端足峠、そして最後に竜ヶ岳。竜ヶ岳を下りたところに第9エイド本栖湖がある。

 くそう、いったいいくつ山があるんだよ?! その数だけ大きなアップダウンがあり、しかも悪路なんてもんじゃない、ときに両手を使ったり、ロープにすがったりだ。もちろん小さな上り下りがおまけについてくる。ピークを越えても越えても、もうひとつ超えても目の前に急坂があらわれる、そんな27km、標高差累積はそこだけで2660m、途中にエイドはない。カラダはもちろん、メンタルもズタボロにされる。UTMF選手たちの多くはふたつ目の夜にここを越えるんだぜ。

 STY当日はどぴーかん、暑い。へっとへとで第8エイド西富士中にたどり着いた、こどもの国から3時間半もかかっている。六花先生のチェック(*2)を受ける「行ってよし」。「イエッサー!」最前線に向かう兵士のよう、目の前の川を渡れば極悪非道の天子が始まる。すぐに薄暗くなってがくんと気温が下がってきた。

 夜の天子は死屍累々、行き倒れ。UTMFの選手たちが、疲労困憊、睡魔に襲われトレイルの脇でへたばっている。そりゃそうだろう、彼らは2晩目だ。羨望と尊敬のUTMFの選手たちが身動きできずにいる。ちっとはマシなSTYの選手たちが気遣う。「大丈夫ですか」「がんばりましょう」、口に出さずにはいられない。オレたちはまだ40kmも走っていない、急坂の下りではときにSTYはロープを譲り、ときに下で待ち構え、UTMFたちの安全を見守る。

 雨ヶ岳を下り端足峠を越え、ようやく天子最後の山、竜ヶ岳に上がった。スントを見るとA8西富士中を出てから9時間をとうに越えている、うへえ、こてんぱんなわけだ。ふっと、後ろを振り返った。薄青い天空にいま下ってきた雨ヶ岳の輪郭がくっきり、真ん中にライトの行列、きらきら輝きこっちに向かってくる。

 思わず、前を走るUTMFのランナーたちに「後ろ、すごいですよ」、声をかける。彼女は振り返って「うわあ、きれいっ」。隣に並ぶ彼は立ち止まり、光たちをじっと見つめ、そして両手を口に当てて大声を出した。「みんなあ、もう少しだぞー、がんばれーっ」。

 夜の青空に点滅するライト。つながり、離れ、またつながる。流れるように下りてくる。苦しく、寒く、そしておっかない天子の山々を越えて来た選手たち。最後の山、竜ヶ岳を目指し、その先の本栖湖で待つ誰かを思い、何かを願う仲間たち。雨ヶ岳の激坂を泥だらけになって下りてくる。

 きらきら光るのはライトではなく、彼らのフィニッシュをめざす熱い意志そのもの。UTMFの選手たちはすでに2日目、120kmを越えている、苦しいだろうに辛いだろうに、もくもくと進む。STYの多くは初めてのウルトラ、半べそでヨタヨタだ、それでもなんとか下りてくる。誰もかれもみんなみんな、かっこいい。彼らと天子を越えられたことが誇らしい。

 さあ、行くぜ。再び走り出した。竜ヶ岳の山頂を越えたあたりで、なにか声が聞こえる。谷間から歓声?! 繰り返し繰り返し、規則正しく聞こえてくる。なに? なんだ?

 竜ヶ岳の九十九折りをばんばん下りる。ますます、声が大きくなってくる。もうわかる、たくさんの女子の声。それも声援だ、いや合唱か。ひとつ目は「がんばれーっ」だ、大きな激励が山を駆け上がってくる。次の音は「お帰りーっ」、3つ目は「あと少しー」。この3つの大きな音の塊が繰り返し繰り返し谷間から突き上げてくる。

 A9本栖湖のエイド。目の前の闇にそびえる竜ヶ岳、その急斜面にライトがきらめいたら、そこに選手がやってきた証拠だ。見上げるエイドの女子たちが一斉に大声をあげる。小さな危うい光は、彼女たちに応えるように点滅し、少しずつ大きく、輝きを増してくる。女子たちの声は優しく、そして力強い、まさにステレオサラウンド大音量。激励の大波は次から次へと竜ヶ岳を駆け上がってゆく。応えるライトはピッカピカに光り、喜びにきらめきながら下りてくる。

 誰かに指示されたわけでないだろう、エイドのマニュアルにもない。彼女たちはそうしたくてそうしている。凍てつく夜空に立ちつくし「がんばれーっ」「お帰りーっ」「あと少しー」と叫び続けている。いつから叫んでいるのか、いつまで叫び続けるのか。

 18日夜から19日の朝まで、女子スタッフの愛は、冷たい闇夜を貫いて竜ヶ岳のてっぺんにまで届いた。苦難無情の天子を乗り越えてきた息も絶え絶えの選手を強く、熱く、激しく励ましてくれた。うれしいなんてもんじゃない。

 ついについに天子が終わる(*3)。足元にA9本栖湖の大きな白い光が浮かび上がってきた。到着! 彼女たちの前を駆け抜けながら泣いた。わんわん泣いた。こんな素晴らしい出来事が起こるなんて、まったく予想もしなかった(*4)。

*1 歌詞はとても悲しいのに、曲調は高校野球甲子園・入場行進曲になりそうな元気溌剌。初期のスタジオ盤は曲が進むにつれて「あのっ」が「あのう」にエスカレートしていくのが楽しい。

*2 天子山地がどれだけ困難か、UTMFオーガナイザーはわかっていた。A8西富士中では医師福田六花が、その選手が天子を越えることができるかできないか、厳重なメディカルチェックを行っていた。5人がダメ出しをくらい、うち2名が十分な休息(睡眠)をとった後に合格、出発。残り3名はその場で納得、リタイアした。

*3 時計廻り・反時計廻り、どっちにせよ天子山地すべてを走るコースはこれが最初で最後。第2回大会からは途中で山を下り、新設された麓エイドを経由するようなった。本栖湖女子声援団はUTMFを手伝うためにやってきたゴールドウインの女子社員たち、彼女たちの大合唱もこれが最初で最後、一度きりだった。

*4 本栖湖のあと、選手は樹海を抜け、深夜の国道139の歩道を鳴沢氷穴までひた走る。誰かさんのサポーターだろうか、大会スタッフだろうか、横を走るクルマが速度を落とし、窓を開けて大声で「がんばれー」「もう少しだぞー」って叫ぶ。腕を外に出して、ぐるぐる振り回す人もいる。反対車線から声をかけてくれたクルマも2台や3台じゃない。

PROFILE

内坂庸夫 | Tsuneo Uchisaka

「ヴァン ヂャケット」宣伝部に強引に入社し、コピーライティングの天啓を授かる。「スキーライフ」「メイドインUSA」「ポパイ」「オリーブ」そして「ターザン」と、常にその時代の先っぽで「若者文化」を作り出し、次はなんだろうと、鼻をくんくん利かせている編集者。
 2004年に石川弘樹に誘われ生涯初のトレイルラニングを体験(ひどいものだった)、翌年から「ターザン」にトレイルラニングを定例連載させる。09年に鏑木毅の取材とサポートでUTMBを初体験、ミイラ取りがミイラになって12年吹雪のCCCに出場(案の定ひどい目に遭う)そして完走。(死にそうになったにもかかわらず)ウルトラってなんておもしろいんだろうと、13年、UTMBの表彰台に立ちたい、自身の夢をかなえようと読者代表「チームターザン」を結成する。
 「ターザン」創刊以来、数多くの運動選手、コーチ、医者、科学者から最新最良な運動科学を学び、自らの体験をあわせ、超長距離走のトレーニングとそのマネージメント、代謝機能改善、エネルギー・水分補給、高所山岳気象装備、サポート心理学などを研究分析する。ときどき、初心者のために「100マイルなんてカンタンだ(ちょっとウソ)」講習会を開催してる。

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