自分に怒り、自分を殴って走る
もうひとりの自分に出会ったことはありますか?
ましてや、戦ったことは?
ウルトラを走るつもりなら覚悟しておきましょう、
自分をやっつけなきゃいけない。
《志村裕貴/大峯奥駈道FKT》の同行取材、最後の最後でそれが起きた。
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吉野からすでに35時間走り続けている志村裕貴。大峯奥駈道(おおみねおくかけみち)をやっつけて熊野本宮大社に参拝し、そして中辺路(なかへち)へ入っている。志村は熊野那智大社を、その先の太平洋をめざしている。
中辺路最初の山塊、小雲取越の下りで志村は足首に痛みを感じた、テーピングをしてみる。そしてふたつ目の山塊、大雲取越の舟見峠。もう上る山はない。この先は那智大社に下るだけ。
先を行く宮﨑喜美乃に後ろから志村の怒号が聞こえてきた。
「こんなところで自分に負けるのか!」「おまえ、このためにがんばってきたんだろ!」
足首の痛みに耐えられない自身に対する怒りだ、自分に怒鳴っている。
宮﨑は密かに思った「よおし、スイッチが入った」。志村のペースで走らせよう、志村を先に行かせる。
前に出た志村はさらに大声を上げる、拳で自分の太ももを叩きはじめた。
「動け動け、動け、バカ野郎」
なにかにとり憑かれたように、志村は闇の中を駆け下る、速い速い。那智大社の鳥居で待ち構えるスタッフの前を素通りして、ついには那智海岸への舗装路を突っ走ってゆく。
どうした? なにが起きた?
志村の勢いは誰にも止められない、那智駅の駅舎の下をくぐり、海岸に出た、その先に道はない。熊野古道141km先には闇夜の太平洋が待ち構えていた。志村は砂浜に駆け込み、自分に負けなかった自分を祝福している。仲間が追いついた。
やはり熊野には神がいらっしゃる。
志村裕貴/大峯奥駈道FKT (吉野金剛峯寺から那智海岸まで)
141.37km 36時間29分14秒
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