御老体の取組みから読み解く「継続は力なり」
早朝ランのルーチンコース上で必ず会う御老体がいる。
この御老体に初めて会ったのは4年ほど前。当時は杖をついて片足を引き摺りながら歩いていらした。
私が一段飛ばしで走って上り下りする階段を、御老体は一段毎に一歩ずつ、ゆっくり。
邪魔をしてしまうのは悪いと思い、御老体が来たら挨拶をして別の階段に移動する(ふふふ!繰り出せる階段のストックは沢山あるのだ!)。
向こうも私が先に練習しているのを確認すると少し遠回りしてから階段に戻って来られているようだった。
だから、4年間かなりの頻度でお会いしていたがタッチポイントは毎度一瞬の会釈だけ。
夏の暑い朝も冬の寒い雨の朝もお見かけして「よく通うよな」などと思う訳だが、まぁお互い様である。
さて、この御老体の今。
両脚でしっかりと階段を上り下りなさっている。
先日お見かけした時は杖を持ってさえいなかった。
この時ばかりは会釈してすれ違う際に、ついこちらが脚を止めてしまった。
そして、御老体はこちらのその様子に気付き、ニヤリと口角を上げたのである。
さて、本題。
「継続は力なり」
使い古された言葉ではある。
杖を持たない御老体に会ったときに紛れも無く私の頭に浮かんだのは、この言葉だった訳だが、なんとも言えない「新鮮な響き」を纏っていた。
御老体にとって4年間の「継続の源泉」は何だったのだろうか?
ある時点から「杖無しで歩けるかもしれない」という兆しを感じ、「杖無しで歩くこと」を目標設定に組み入れていた可能性は高い。
何らかの目標に向かって継続を試みる。
これはとてもシンプルで誰しもが納得できる機序である。
一方、御老体は少なくとも4年前の時点では、杖無しで歩く自分の姿をほとんど現実的な形で想像はしていなかったのではないかとも思うのだ。(傍目から拝見する限りでは、それほどの大きな変化を成し遂げた、ということだ。)
では、「杖無しで歩けるかもしれない」という兆しを感じる前の初期において、彼の「継続の源泉」は何だったのだろうか?
先ず、御老体は何らかの切っ掛けを得て、早朝の階段練を「とりあえず継続してみることにした」のだろう(その切っ掛けは知る由もないが)。
ある程度継続してみた時に、御老体は日々自分の身体に現れる小さな前進を感じたのではなかろうか。これは想像に難くない。ランナーたる我々も日々そういった変化を感じている。
「とりあえず継続してみたこと」で得られたこの小さな前進の感覚。
この感覚が、御老体にとって継続自体への強烈な動機付けになったのではなかろうか。
まとめよう。
杖を手放したことは確かに滅茶苦茶大きな一歩ではあるが、大きな一歩だけが成果になる訳ではない。
日々の中に僅かでも前進を見出すことができれば、例えそれが他人からは分からないような小さな変化であっても、本人にとっては「継続の源泉」となり得るのだと思う。
「とりあえず継続してみたこと」が、いつの間にか「継続すること自体」が一つの意味をなす様になり、その継続の積み重ねの結果として、長いスパンで振り返ってみた時に「大きな変化」が生み出されていたことに気が付く。
こう考えてみると、
- 先ずは“とりあえず”継続してみること
- 日々の継続の中に僅かでも前進(小さな成功体験)を読み取ろうと試みること
- 大きな変化はあくまで長い目で見た時に結果的に得られるものだと割り切る心持ちでいること
といった辺りがとても大事なのではないか、という気がする。
「継続は力なり」という言葉はもしかしたらこれほどの意味をも包含しているのかもしれない。
御老体の姿を見て、以上の様なことを考えるに至ったのである。
勿論、真実は御老体ご本人以外に知る由もない訳だが…。
オショー