限界があることで創造性は試される
この前、以下のようなメッセージをもらった。
仕事の忙しさや、家族との時間などがある中でなかなかトレーニングをうまく組めないことが多くて“もどかしさ”を感じているのだが、オショーさんはどうやって巧くやり繰りしているのか?
実はこの種の質問は以前にも受けたことがある。トレーニングに取り組む人達にとって割と共通の話題なのかもしれない。
※質問者の方に同意を頂き、今回はこのご質問に続くやり取りの再現という形でお送りします。
どうやって巧くやろうか
先ず、漠然と「巧くやろう!」と心掛けるだけで巧くいくことはない。(それで巧くいくなら悩む前に巧くいっているはずだ。)
何かを変えたければ、そのような精神論を排除し、具体的な仕組みを構築することが大事だ、と思う。
今回の話題は「(有限な)時間の配分」の話なので、先ずはご自身の一日の時間の使い方を洗い出してみることから始めてみるのが良いと思う。
そして、“どの時間をトレーニングにアサインし直せるか?”を、それぞれの時間の現状の用途と、トレーニングとの優先度を比較しながら“仕分け”してみる。
そういう作業を経ずに、例えば「早起きをしてトレーニング時間を作る!」というような運用を突然開始しても多くの場合は失敗に終わる。(ちなみにその運用自体は、“時間を作りだした”訳では決してなく、睡眠時間をトレーニング時間にアサインし直したに過ぎない。)
仕分けてみると分かると思うが、意図せずに無意識に浪費してしまっている時間というのは意外に多い。(それ自体は悪いことではなくて、人間はそういうもんじゃないかな、と。人生に無駄は無し。日常に糊代は必要。)
そういう時間が浮き彫りになったのならば、先ずはその時間をトレーニングの時間にアサインし直すことを考えてみる。
質問者の方にもこのやり方をオススメしたところ、「夜のテレビの時間は不要かもしれない(特に観たくて見てる訳ではない)」とのこと。先ずはその時間にトレーニングができないかを試してみる、という結論に至っていらした。
当初「トレーニングをうまく組めない」理由として、「仕事の忙しさや、家族との時間」を具体的に挙げていらしたが、実は仕事の時間や家族との時間は特に減らさなくても巧くやれる可能性があることに気が付いたようだ(そして、ちょっと安心されていた)。
このやり取りの結果だけ見てしまうと、「何故そんなことに自分で気が付けないんだ?」と思うかもしれないが、それは後知恵に過ぎない。
日常生活というのは自分が思っている以上にルーチン化されていて、それを崩すことは自分ではなかなかしない(できない)ものなのである。
だから、客観的に分析してみることは大事だし、どうしても入り込んでしまう主観を排除するために他人の手を借りるのは良いアプローチじゃないか、と私は考える。
質問者の方とのやり取りはこんな感じだったが、最後に一つ、別の論点を提示してみようと思う。
時間が無限にあったとしたら
上述の話題は「(有限な)時間の配分」の話だった訳だが、前提となる時間が無限にあったとしたらどうなるだろうか?
時間が無限にあったならば、配分に迷うことなどなく、トレーニングをしたい時に好きなだけトレーニングができる訳だが、果たしてあなたはどう振る舞うのだろうか?
個人的には「そんなに巧くいかないんじゃないか」と思うのだ。
多分使える時間が無限にあったら、その人はトレーニング自体にあまり頭を使わないんではなかろうか?
即ち、漫然とトレーニングする時間が増えるような気がする。
何故かというとトレーニングの効率性などを考える必要性が大幅に下がってしまうからだ。(人間は必要に迫られなければ、そのために頭は使わないものだ。)
そうすると、結局、トレーニング時間自体は長くなるのに得られる結果の優位性には大きな差は出ない(ROI;投資対効果が低い)のではなかろうか。
一方で、身体のトレーニング耐性自体は変わらないので(必ず許容上限がある)、トレーニング量が許容上限に近付くことによる弊害(オーバートレーニングや故障など)が発生しやすくなる予感すらする。
何が言いたいか、というと「人間は限界があることで創造性が発揮できるのではないか?」ということである。
もしかしたら、子育てや仕事などで時間がないことをネガティブに捉えている方もいるかもしれない。
そういった時間の縛りが無かったら、自分ももっと速くなれるかもしれないのに、と他人を見て羨んでいる人もいるかもしれない。
だが、こう考えてはどうだろうか?
それらの時間は決して“制限”なのではなく、自分の創造性を引き出すためのポジティブな付加条件である、と。
オショー