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2020年1月23日

オショー オショー

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丸子橋は何メートルなのか?

丸子橋は“600m”あるそうだ。

Instagramに流れてきた友人の投稿を目にして、咄嗟に違和感を覚えた。
何故かと言えば、自分の体感では「丸子橋は600mもない」と思われたからだ。

「丸子橋」は、私が職場からの帰宅ランで多摩川を越えるときに毎度通る橋である。

一級河川たる多摩川の他の橋と同様に確かに長い橋ではあるのだが、600mインターバルによって私の身体に刷り込まれた“あの距離感”とは明らかに違っていた(足りない)のだ。

そこで私は自分の足で現場検証に赴くことにした。
(実は、その日の夜に帰宅ランをするかどうかに迷いがあったので、内心丁度良い「走る理由」を見つけたと喜んだ訳ではあるが。)

その結果。

私のInstagramより

その後、投稿主の友人から以下のような趣旨のレスを頂いた。

  • 行政上の丸子橋の長さが“400m”であることは、彼も重々承知だった。※正式には405.6 mとのこと。
  • だが、彼が丸子橋を渡っているときに、同じく丸子橋を歩く御老体から「“丸子橋”とつながる“上子橋”とを合わせて自分は『丸子橋』と呼んでいる」という話を聞いたらしい。

確かに、丸子橋の先には、そのアーチ形状を維持したままの坂道が地続きで存在しているのだ(この部分が“上子橋”ということは初めて知った)。

そして、丸子橋に、その部分=上子橋を加えると確かに“600m”なのである。

即ち、彼が出会ったその御老体にとっての「丸子橋」は間違いなく“600m”なのである。

さて、このレスをもらったとき、私はとても恥ずかしい気持ちになった。

それは、とてつもなく野暮なことをドヤ顔でカマしてしまったことに対して、ということもあるのだが、
それ以上に、“丸子橋”の定義を、自分の持っていた尺度(それが今回は行政上の定義に相当していた訳だ)からしか想定できていなかったことに対して、である。

この話をすると、以下のような反応が予想される。

「いやいや、“丸子橋”の距離を話題にするなら、その定義は行政上の定義に従うべきでしょう(=そうしないと会話が成り立たない)」

果たして本当にそうだろうか?

極端な例を想定してみよう。

“丸子橋”の近くに住みながら何らかの理由で東京都側から神奈川県側に向かって多摩川を渡ることを許されていない人(Aさん)がいるとする。

そして、Aさんが私に対して「(私にとって)丸子橋は無限の距離だよ」と発言したとしよう。

この時、私からAさんへの返答として

「いやいや丸子橋は有限ですよ。行政上の定義によれば、距離は405.6mっすよ。」

と語ることが全く意味のないことは容易に想像できると思う。

即ち、その返答ではAさんとの対話は“成り立たない”のだ。

何が言いたいかというと、こういうことだ。

誰かと対話を試みようとする時、“行政上の正しさ”や“数字的な正確さ”が必ずしも意味を成すとは限らない

誤解のないように言い換えると、“行政上の正しさ”や“数字的な正確さ”が優先される場合は勿論ある。が、それは対話に参加している人間が共にその認識を共有している場合においてのみ意味を成すのだ(例えば、橋の補修をしようとしている工事関係者同士の会話)。

即ち、それらが優先されない場合もそれ相応にある、ということである。

そうであるならば、誰かとの対話にあなたが参加したい時、先ずあなたは【自分の尺度を一度捨てないといけない】(しかも、その対話の相手より先立って)ということである。

それはあなたが対話したい相手が同じ尺度を持つとは限らないからだ。

寧ろ、あなたが真に対話したいと強く願う相手は、あなたとは尺度を共有できない相手であるはずである。
(同じ尺度を持つ者はあなたの類似物でしかない。そんな相手との対話は「独り言」に近いものになるだろう。全ての返答は想定内。果たして、それを対話と呼べるのだろうか?)

さて

なぜアスリートブログでこんなことをツラツラ書いているかと言えば、上記の話題は対話能力を高めることに関わるからだ。

そして、自分の経験では、対話能力を高めることは、ランニングのパフォーマンスを向上させる上でもとても重要な要素であるように思える。

試しに以下の2つの例を見てみよう。

例えば、ライフバランスに関して。

日常生活において、家庭や仕事といった生きるために必要な要素と上手くバランスをとりながらトレーニングを積み上げることができるか否かが、パフォーマンスを向上する上でとても重要なファクターである、というのは多くの方に同意頂けることだと思う。

私は、このライフバランスを上手く保つためにとても重要なのは、家庭や仕事における利害関係者(家族、職場の同僚や上司)との間での対話であると考える。

それは、社会において我々は独りで生きているわけでは無いからだ。当然ながら私自身のライフバランスは彼らとの相互関係の影響を大きく受けるのである。

要は、ライフバランスは自分のみで保てるものではなく、彼らとの間できちんと調整をした結果として保たれるものなのだ。

そして、この利害関係者との調整というのは、まさに彼らとの対話そのものになるはずだ。

短期的には、彼らとの対話・調整を省略して、自分の思うがままに突き進んでパフォーマンスを上げることも可能であろう(時にはそういう局面も必要かもしれない)。

だが、長期的に見たときには、どうだろか?

家庭や仕事が上手くいかなくなれば、どこかでライフバランスが崩れる。
その結果生じた心理的なストレスは、トレーニングやパフォーマンスにも大きく影響するはずだ。

例えば、身体との対話に関して。

トレーニングを上手く続けるうえで大事なのは“身体との対話”である、というのはよく聞く言葉だと思う。

だが、自分の“脳”にある理想のトレーニングを行使しようとした結果、“身体”が追随してこないこと(最悪、故障してしまうこと)を実体験として持たれている方は多いのではなかろうか。

何故こういう事態がランナー各位に頻発するかと言えば、多くの人は自分の脳が織りなす思考に過剰な信頼を寄せているからだ。

だが、現実的には身体は脳にあっさり見切りをつける(正確には、身体の方が脳よりも正直に外的刺激に反応するのである。)。

自分の身体は、自分の手元にありながら、ある意味では「究極の他者」と言えるのかもしれない。

この「身体との対話」を上手く試みる上で必要なのは、自分の脳側の尺度(多くの場合は、外部から得た情報に基づくその人なりの理想のトレーニング方法などだろう)を一度捨てることができるか、そして、身体側から発せられる純粋な情報を歪めることなくそのまま取り込むことができるか、という態度ではなかろうか。

そう、「究極の他者」たる自分の身体との対話能力も、まさに日常における自分以外の他者との対話能力を高めることによって少しずつ向上していくものだと思われるのだ。

長くなってしまったので私の考えをまとめよう。

  • 私は、他者との対話能力を高めることは、ランニングのパフォーマンスを向上させる上でもとても重要な要素であると考える。
  • そして、他者との対話能力とは、対話相手よりも先に自分の尺度を一度捨てることができる能力であると考える。
そう言えば“丸子橋”から始まった話だった…

では、最後にあなたに対して1つの質問を投げかけてブログを締めようと思う。

トレイルランナーであるあなたが、シングルトラックのトレイルで前から来たハイカーとすれ違う場面を想定してみよう。

あなたが試されるのは、あなたの持っている尺度を捨てて、そのハイカーと対面できるかどうかだ。

さぁ、あなたならどうする?

オショー

ランニングやトレーニングに限らず質問や相談などを「コール」ください(TwitterやInstagramのメッセなどをご活用の上)。

時間がかかるかもだけどきちんと「レスポンス」します。

PROFILE

オショー

オショー | O-show the ripper

切り裂き和尚 a.k.a. O-show the ripper|Father, Bookworm, and Elevation Junkie.|Gコ山TRC所属。
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Great Cossy Mountain >>> http://gcm.thebase.in/
STRAVA >>> https://www.strava.com/athletes/1513063

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